海がなかった理由
中学の頃、仲良しだった友人が合唱部でした。
母校は大会で様々な賞を修めていたので、部活の指導や練習にもかなり熱が入っておりました。
ある日、彼女たちの部活が終わる頃合いを見計らって音楽室に出向いたところ、防音扉越しに微かに聴こえてきた歌に私は耳を奪われました。
波の揺蕩いを思わせるテンポにのった、憂いを帯びた旋律。
部活が終わって音楽室から出てきた友人にその衝撃と感動を伝えると、海はなかったという曲なのだと教えてくれました。
それ以来、音楽室の扉の前で友人を待ちながら耳を欹てる毎日を送るようになりました。
私は美術部という名の帰宅部でした。
海を眼前にした歌なのに、何故に海はなかったというタイトルなのだろうとずっと腑に落ちずにおりましたが、多感な17歳の少年の心の葛藤と環境問題をテーマにした歌なのだと最近になって知り、ようやく積年のモヤモヤが晴れました。
海を前にすると自然と口ずさんでしまう歌です。
妹は、生前歌の講師だった母の才を色濃く受け継ぎ歌がとても上手です。
少女の頃、3年間ほど海辺の漁師町に住んでいたことがありました。
妹はその町で生まれました。
5月は海水の満ち引きの度合いが大きいので、大潮の干潮を見計らってよく潮干狩りに行ったものでした。
母は背中でグズる妹に、海中に揺らめく新ワカメを毟るとササッっと海水で濯いで与えておりました。
潮干狩りといっても、事前に養殖アサリをばら撒く有料の干潟ではないので、熊手で砂浜をこそげばアサリがボロボロ現れる訳ではなく、探し出すのが一苦労でした。
それに、地元民の間ではアサリと呼ばれていたアサリは、よく見ると白くて丸い形をしていたものが多かったので、アサリによく似たアサリではない貝だったのかもしれません。
何故か貝柱がふたつありました。
柱と聞き及べば水の呼吸の派生…?などとすぐに連想してしまう私はかなり鬼化が進行してるようですが、味はアサリそのものでした。
娘を妊娠した時のつわり以降、魚介類が苦手になってしまっても、あのアサリ汁だけはもう一度飲みたいと思うのです。
母の3回忌の折、久々にその漁師町を訪れました。
妹が生まれた家も、親友に出会った学校も、放課後買い食いした駄菓子屋も、友達と話し込んで何本もバスを見送った停留所も、すべて津波に攫われてなくなっていました。
かつての故郷である海辺の町から少し離れた弟家族が住む町の、潮騒の聴こえる墓地で母は眠っています。
その母がお盆には海で泳いだりするものではないと止めるのを聞かずに、いつものようにTシャツと短パンの中に水着を着て家を飛び出した遠い日の8月15日、私は海でおぼれそうになりました。
所詮迷信であろうという驕りのもと、ギリギリ踵がつくかつかないかのところでフワフワ波に揺られるのが楽しくて夢中になっている内に、つま先すら掠らない場所まで流されていました。
どんなに岸に戻ろうと藻掻いても潮流が脚に絡みついて沖へ沖へとひっぱられる感覚。
砂浜に打ち寄せる穏やかな波と、その下でうねりを伴て沖へと引いていく波、波には二つの顔があると父が言っていたのをこの瞬間に思い出しました。
咄嗟に近くにいた友人の肩をつかみました。
友人は私よりも20cm近く背が高かったので、まだ足が地面についていました。
友人のお陰で命拾いしました。
初めて海が怖いと思いました。
思えば、漁師町の長老たちは一様に母と同じことを言っていました。
漁船もお盆の期間は漁にでません。
言い伝えや謂れというものははやはり一理あるのだということを悟りました。
以来、お盆に海に入ることはありません。
夫も釣り禁止を慣行しております。
今は海よりも水着を着ることの方が怖いです。
10月上旬、皆で海へ。
広大な海原を目の前にしてロージィは何を思っているのでしょう。
犬生3度目の景色です。
水を怖がることもなくズイズイ波打ち際へ行こうとします。
誰もいない海を、娘と一緒に思いっきり駆け回っておりました。
そして私は、フレーム越しに彼らの姿を追いかけながら、今在る命を、瞳の中に映るものすべてを大切に生きていこうと思った次第です。
手前の黒いカタマリは息子のアタマです。